新潟県天産誌を読む(2) 雲の色と天の色

前回(1)では『新潟県天産誌』の編者・中村正雄について調べてみた。中村は大学や博物館などの研究施設ではなく、旧制中学校の博物教諭をしながら研究活動を続けていた。今でいう在野の独立研究者に当たるだろう。今回(2)では『天産誌』ができた当時の時代背景について、オンライン資料をあれこれ探し回りながら調べてみたい。

連載インデックス


目次


ニッポンの青春時代

同時代人について

中村正雄が慶応3年(1867)生まれということは、夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、南方熊楠、宮武外骨、豊田佐吉(トヨタ創業者)あたりと同年になる。その一年下には、尾崎紅葉、横山大観、鈴木貫太郎、秋山真之、宇垣一成などがいる。

なんとなく時代の雰囲気が分かる。国民国家として再出発した近代日本とほぼ同い年である。司馬遼太郎に倣えば、いわば坂の上の雲を目指して、上だけ見て純粋に邁進できた世代ということになるのか。

理科教授法と植物図鑑ブームについて

『新潟県天産誌』はいわゆる図鑑ではない。文字が大半で、図はほとんど掲載されていない。どの地域にどのような動植物が分布しているか、種の名前を列挙しているだけ。だから単に眺めるだけでは、とても地味な本でしかない。

しかし当時はさまざまな植物図鑑が作られていた。明治後半あたりに植物図鑑のブームがあったようだ。その時代のことは以下の資料で読める。この時期に植物図鑑が多く生まれた背景、図鑑という言葉を最初に使ったのは誰か、牧野富太郎vs村越三千男の長年にわたる確執など、ちょっと興味深い話が多くておもしろい。

この資料に書かれた内容をまとめると、明治後期の小学校では妙な状況が起きていた。

政府「身近に生えてる植物について学ばせよ。ただし教科書はない」
先生「教材どこですか」
書店「植物図鑑できました」
先生「教材きたー」

文部省が身近な動植物を教材にして理科を教える方針を出したのだが、しかし教科書は用意されていない。それどころか教科書は禁止されていた。なぜ教科書禁止という妙な方針になったのか。下記の資料に経緯が書かれている。

当時の理科教育は博物重視だったが、そこには理論よりも自然の知識を重視するドイツの影響が大きかったという。リューベンやユンゲによるこの理科教授法では、まず生徒に目の前に生えている植物を見せて、そこからその植物の属、科、目などの知識へ進んでいく。いわゆるボトムアップ方式だった。それだけ聞けば、あーなるほどねー、となる。ところがドイツでは博物学の教え方の話だったのに、日本ではなぜか理科全体の教え方の話に置き換わっていた。おまけに現物主義が勢い余って教科書禁止にまで至ってしまう。

つまり、文部省は、教師と児童から生徒用教科書を取りあげることによって、教科書の字句の解釈と暗記に終始するような理科教育を強制的にやめさせようとしたのである。 (p.188)

かくして先生たちは大いに困るが、上に政策あれば下に対策あり。教材不足を補うための図書が現れた。筆記代用や理科筆記帳と呼ばれたそれらの図書は、教科書じゃないから大丈夫、という謎の理屈に基づいていたが、中身はどう見ても教科書である。それに加えて、先生たちの参考資料として各種の図鑑が登場した。

中村が県内各地で調査していたのは、明治後期から大正末期あたりまで。牧野富太郎(1862-1957)が活躍し始めたのもこの時期だ。ロングセラー『牧野日本植物図鑑』が出版されるのは戦時中(1940)だが、それ以前からいくつも植物図鑑の制作に関わっていた。

中村が赴任した頃の長岡や柏崎は、大学や研究機関があるような大都市ではない。当時で人口数万人の地方都市である[1]。その環境下でも調査を続けることができたのは、植物図鑑、動物図鑑、鉱物図鑑など当時急速に整備されつつあった参考文献の存在が大きかったのではないか。

教員不足と地方博物誌について

明治後期から昭和初期にかけて、都道府県ごとにその地域の動植物相をまとめた「植物誌」や「自然誌」がいくつも刊行されている。その中でも『新潟県天産誌』はきわめて初期のもので、これより古い都道府県別の植物誌は『大分県産植物総目録』(1923)しか見当たらない。しかし『大分県産植物総目録』という本は、国立国会図書館には収蔵されていない大学図書館にも見当たらない大分県立図書館でも見つからない日本の古書店でもヒットしない、という幻の資料である。なぜか岡山県立図書館でだけ見つかる不思議。となると、今でも地元の図書館などで閲覧できる地方博物誌としては『新潟県天産誌』が国内最古になりそうだ。

この時代に地方の博物誌がまとめられた遠因には、やはり文部省の方針があったという。そのあたりは以下の資料にまとめられている。

旧制中学校の先生というのは、基本的に高等師範学校(今の教育大)の卒業生が就くはずだったが、まず絶対的人数が少ない。現場では中等教員が不足しており、それを補うための検定試験が普及した。この試験の正式名称は「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」で長すぎるので省略して「文検」と呼ばれた。この文検の合格者たちは各地で学校教育に携わることになる。特に博物学分野の合格者たちは、その専門知識を生かして地域ごとの生物相を調査して、それをまとめる編纂作業でも中心メンバとなった。

大都市にしかなかった大学の研究者ではなく、専門知識を持たない地元の愛好家でもなく、その中間層として文検の合格者たちが地方の教育や研究の中核となっていたのだ。中村正雄も1901年に文検の植物学科に合格している。ちょうど旧制長岡中学校に赴任した頃である。

辞典編纂について

と、まあ因果関係ではそういう話になるのだが、しかしもうちょっと別の見方もできるのではないか。文部省や教師を含めて、そもそも当時の人々はどんなことを感じていたのだろう。以下でちょっと妄想してみたい。

中村正雄が本格的な調査を始めたのは1905年前後と思われるが、これは近代的国語辞典が出版され始めた前後に当たっている。日本初の近代的国語辞典『言海』が明治22~24年(1889~1891)に世に出たあと、『帝国大辞典』が明治29年(1896)、『辞林』が明治40年(1907)にそれぞれ刊行されている。さらには近代的な百科事典として『日本百科大辞典』も明治41~大正8年(1908~1919)に登場した。

大槻文彦(1847-1928)が『言海』を編纂したのは1875~1889年頃で、その背景には「日本を近代国家として認めさせる」という政治的な目的もあった。文部省の職員だった大槻文彦は、上司からの業務命令を受けて辞書編纂を開始したのである。

当時、欧米では辞書編纂が盛んに行われていた。なぜか。そこには言語の固定という社会的な必要性があったらしい。あいまいな綴りを確定させたり、意味を再確認したり、それまで統一されていなかった言葉というものを「標準化」する目的があった。たとえば英国の『OED』こと『オックスフォード英語辞典』は1927年に出版されている。このOEDができるまでの摩訶不思議すぎる物語は『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』サイモン・ウィンチェスター (ハヤカワノンフィクション文庫)に詳しい。非常におもしろいのでおすすめ本である。

日本もそんな欧米に追従した。鹿鳴館の建設と同じく、国語辞典こそ近代国家の必要条件だぜ、と思われていたわけだ。

もっとも『言海』の原稿が完成する明治16年(1886)頃には政府の予算がつかなくなり、大槻文彦は原稿の払い下げを受けて、自費出版で『言海』を刊行した。かけた手間も時間も膨大なのに、最後は梯子を外されて自腹とか、可愛そうすぎる展開である。大槻さんの10年間を返せ。

広がっていく雲について

旧制中学教諭というインテリ層だった中村正雄ならば、これらの辞典や事典を多分知っていただろう。さらに重要なのは、同時代人として時代の空気も共有していた点である。

つまり、博物誌にもこれに近い目的意識があったとは考えられないだろうか。この時期以降、日本各地で地方博物誌が作られるが、その背景には教育や研究を越えた「近代国家建設」という巨大な雲が地方にまで広がっていく様子が、うっすら見えてこないだろうか。博物誌という一見地味な書籍であっても、当時それを作っている人々には今この自分が国家を前進させているという想いがあったかもしれない。自身の成長と国家の発展をぴったり重ねることができた幸運な世代として。

普通の本とは違って、辞典・辞書・事典・図鑑というのは分厚くて、重くて、大きくて、文字も多くて、いかにも難しそうだ。作るのが大変なのは誰にだって分かる。そんな書籍が何種類も作られていく様子を見て、同時代人たちも「我が国はやればできる子」という一種の愛国心を抱けたのではないか。

江戸時代に作られた博物誌(本草学)には、薬草・特産品探しという実利的な目的もあった。明治大正期の博物誌も単なる科学の「文献」であったとは思えない。未だ東アジアの途上国に過ぎなかった日本にとって、それなりの政治性を持っていたのではないだろう。もっとも当時の辞典事典や博物誌が持っていた象徴性とか政治性とか、社会にどのように受容されていたか、てなテーマとなると自分にはお手上げだが。

改めて「天産」について

こんな話を考えているのは、やはり『天産誌』という書名にずっと引っかかりを感じているからだ。当時から「博物」という言葉の方が一般的だった[2]のに、なぜ天産という言葉を使ったのだろう。特に「天」が持っていたニュアンスが気になる。天という言葉は空そのものを意味するより、その下に広がっている人の世のほうに視点が向いていることが多い。人がいない場所に「天下」は存在しない。

天の文字は、国家や統治と結びつくことが多い。だから徳川将軍は「天下人」と呼ばれ、平和な社会は「天下太平」となり、その後に現れた君主は「天皇」と呼ばれた。国立博物館がかって帝室博物館と呼ばれていたのは、それが君主の財宝であるというニュアンスだろう。ならばその自然史部門が「天産部」と呼ばれていたのは、それも君主の所有物という意味を持っていたからだろうか。などと考えていたら、天産誌という言葉の後ろ側に、大日本帝國の大きな姿が一瞬見えた気がしたのである。

NDL Ngram Viewerで「天産」というキーワードの出現頻度を見ると、敗戦の1945年あたりを境にして一気に減っている。これは大日本帝國から日本国への政治体制の変化と呼応しているのではないか。民主政への移行によって天産は死語となり、言葉自体が忘れ去られたのではないか。

いやいやいや。今読み返したら牽強附会そのもの。妄想の一種として読み流して頂ければ幸い。


次回予告

今回(2)ではこの本ができた時代やその背景などについて調べてみた。近代日本とほぼ同い年の中村正雄にとって、自身の成長は国家の成長と直結していたのではないか、そして天産という言葉は当時の国家体制と結びついていたのではないか。という仮説だったのだが、ちょっと無理があったかも。次回(3)では様々な関連人物について調べてみる。


  1. 長岡市統計年鑑 令和3年版によれば、明治39年の長岡市人口は33,702人。ただし市町村合併の前であることに注意。 ↩︎

  2. NDL Ngram Viewerで1860-1945年に限定してキーワードの出現頻度を比較すると、博物524,807件に対して天産45,886件で、10倍以上の差がある。 ↩︎