前回(5)では『天産誌』の博物目録をすべて斜め読みして、特に気になる箇所を取り上げてみた。これまでの5回で『天産誌』の編書、時代背景、関連人物、プロセスなどを見てきた。当初の予想以上に長くなってしまったので、最後の(6)では出版した後の時代について軽く触れて終わりにしたい。
連載インデックス
- (1) 博物学者がいた時代
- (2) 雲の色と天の色
- (3) 石油の匂いは地の底から
- (4) 標本探しは千里を越えて
- (5) 目録ぜんぶ斜め読み
- (6) さよなら博物学者
目次
さよなら博物学者
博物学の終わり
大正14(1925)年に『新潟県天産誌』が出版されたその同じ年、旧制中学校には軍事教練(学校教練)が導入されている。そろそろ聞こえ始めた。軍靴の音が。
昭和期に入ると「博物学」の授業はなくなる。中学校令施行規則中改正(昭和六年)が施行され、旧制中学校に博物という名前の科目はなくなり、物理化学と統合されて「理科」になっている。
- 第三章 第三節 中学校・高等女学校の改革 の「中学校教育内容の改善」参照
- 学制百年史, 学制百年史編集委員会, 文部科学省
日本に「博物学者」と呼ばれる人が存在していたのは、中村正雄や同年の南方熊楠たちの世代に限られる。それ以前にもそれ以後にも、博物学者を自称する人はほぼいない。欧米では長い歴史がある分野だが、日本に博物学が存在していたのは明治維新後のせいぜい60年間くらいだろう。これ以降は生物学や地質学など、もっと細分化した分野名で呼ばれるようになる。
国内油田の終わり
国内の石油採掘のピークは大正時代だったようだ。資源エネルギー庁の「日本のエネルギー、150年の歴史②」というページによれば、『天産誌』が出版された1925年頃を境にして、原油の輸入量が国内生産量を越えている。明治大正期までは国内生産の方が多かったが、昭和期に入ると輸入量のほうが多くなり、さらに輸入量はどんどん上昇していく。
逆に国内生産量は横ばいから下降へと転じる。ENEOS 石油便覧の「石油産業の歴史 第2章 第2節」によれば、国内生産量のピークは大正4(1915)年だった。新津油田は大正6(1917)年に産油量日本一となったが、その後の産油量は減少を続ける[1]。国内生産だけでは全く需要を賄いきれない状態になっていた。
昭和16(1941)年、米国は対日石油禁輸を通告し、それを受けた日本は太平洋戦争に突入する。軍部は国内の石油技術者を徴用して石油部隊を編成し、占領した東南アジア各地の油田から原油を国内輸送する。日本にとっての第二次世界大戦は、石油を巡るエネルギー戦争でもあった。
中野財閥の母体である中央石油と中野興業は、太平洋戦争中の昭和17(1942)年に国策会社の帝国石油株式会社に統合されている。事実上の国家による接収みたいなものだが、太平洋戦争の開戦前には原油の9割を輸入に頼る状況になっていたので、こんなことしても焼け石に水だったのでは。
没後の時代
中村正雄が逝去したのは昭和18(1943)年1月。第二次世界大戦の真っ只中になる。ちょうどその頃、ガダルカナル島では多数の兵士が生死の境を彷徨っていた。アメリカではマンハッタン計画で最初の原子炉が臨界に達していた。3ヶ月後のラバウルでは山本五十六が撃墜されて戦死した。
坂の上の雲を目指して進む時代はとっくに終わっていた。上を向いて坂道を登っていたら、下り坂を転げ落ちる時代になっていた。そして本当のどん底に至るのはそこから更に2年ほど後になる。
昭和20(1945)年8月、ポツダム宣言を受諾して、日本の第二次世界大戦は終わった。
戦後の教育改革によって旧制中学校は廃止されて新制高等学校に替わった。理科は物理、化学、生物、地学という今に至る形で再編された。
中野財団はどうなったのか。状況は不明だが、中野財閥の消滅とともに中野財団の活動も終了したと思われる[2]。国策会社の帝国石油は、戦後に国際石油開発帝石となり、さらに現在のINPEX(国際石油開発帝石)に至る。
新潟県知事や中野財団理事を務めた太田政弘は、関東州や台湾で行政長官を務めていたことから、戦後に公職追放される[3]。太田は昭和26(1951)年に80歳で没している。ちなみに太田の次男・高橋政知はラバウルで終戦を迎え、復員後に縁あってオリエンタルランドに入社し、やがて2代目社長を務めることになる。苦難を極めた東京ディズニーランド誘致の中心人物である。
そして、日本は戦後の復興期を迎えて、高度成長期を邁進して、勢い余ってバブル経済に突入して、バブル崩壊して数十年ほど失われて、そして現在に至る。生物学はゲノム解析やバイオテクノロジーの時代になり、コンピュータという戦前には存在しなかった情報技術の普及によって、世界も科学も大きく変貌する。
百年後のあとがき
中村正雄が『天産誌』の原稿を書いていた時代から100年後のこと。数十年ぶりに故郷の新潟県に戻ってきた私は、あちこちの森や山や河原などを散策し始めた。すぐ感じたのはそれまで暮らしていた関東地方との植生の違いである。そのあたりは新潟と神奈川の植生の違いまとめにまとめているので、興味のある方は御一読ください。
いったいこの地域には何が生えているのか。まずはインターネットで資料を探し始めた。そこに現れたのは、大正時代に作られた『新潟県天産誌』という謎の資料であった。なにそれ。聞いたことがない。たまたま国立国会図書館デジタルコレクションで中身を閲覧できることを知って、しばらく眺めてみた。そして、これは今読むとちょっと面白い本なのではないかと気づいた。
新潟県は12月から3月頃まで雪に覆われ、外を歩き回ることは難しくなる。100年前の中村先生も同じだったに違いない。すっかり暇になった100年後の私は、家の中でオンライン資料を少しずつ探し回った。やがて当時の時代背景、関連人物、出版に至る流れなどが見えてきた。あまり語られないけれど、背後には予想外の苦難があったことも知った。
ただ、この本の面白さが理解できる人は少ないよね、とも思えた。興味を持つ人自体が珍しいだろう。ならば閑人すぎる自分が記事を残しておくか。かくして真冬にウンウン言いながらまとめたのが本記事群である。そんなことをしていたら季節はすでに春になっていた。街の雪は消え、山の雪も減り、早春の花が咲き始めた。そろそろ私も天産だらけの山や森に戻ろうかな。
新津油田は平成8(1996)年まで採掘を続けていた。 ↩︎
https://www.unisonplaza.jp/reading_room/ ページには「新潟県社会福祉協議会の前身とも言える新潟県社会事業協会・中野財団が」という一文があるのだが、これはおそらく新潟県社会事業協会や中野財団の活動が現在の新潟県社会福祉協議会に受け継がれたという意味だろう。 ↩︎
公職追放に関する覚書該当者名簿(1949)に書かれている「F 占領地の行政長官」に該当するはずなのだが、この名簿で太田政弘の名前を見つけられなかった。もしかして見落としているかな? ↩︎