新潟県天産誌を読む(4) 標本探しは千里を越えて

前回(3)では『天産誌』が生まれた時代背景について見てきた。庄内の博物学の系譜と新潟のオイルマネーが融合した場所にこの本が生まれたらしいことが分かった。今回(4)ではこの本が一体どうやって作られたのか、そのプロセスをなるべく具体的に推測したい。そして実際の行動を思い浮かべてみたい。

連載インデックス


目次


天産誌のつくり方・レシピ編

以下では『新潟県天産誌』がどうやって作られたかを考えていく。レシピ紹介である。必要な食材を以下にまとめる。これらが用意できれば、どのご家庭でも作れます。

  • 膨大な時間
  • 膨大な労力
  • 膨大な知識
  • 膨大な標本
  • 膨大な原稿

簡単ですね。それではつくり方を見ていきましょう。


各地を調査します

まずは県内全域を歩き回りましょう。ちなみに新潟県は面積12,584平方キロメートル。中越地方だけでも4,883平方キロで、神奈川県(2,416平方キロ)の2倍くらいあります。県の端から端までの距離は約250キロメートル。東京から名古屋まで行く距離とだいたい一緒です。

長岡市や柏崎市に赴任していた中村なので、中越地方であれば比較的調べやすい。週末になるとよく調査に出向いていたようだ。上越・下越となると訪れる機会は少なかったが、それでも5月や8月の長期休暇を利用して、毎年のように調査旅行に出かけている。『天産誌』の冒頭にはその遠征記録が列挙されており、明治37年から大正11年までほぼ毎年県内各地を訪れている。

調査日程と場所の記録

調査期間は、明治37年(1904)から原稿完了前の大正12年(1923)あたりまで。約20年間に渡っている。具体的にどのあたりへ行っていたのか。以下『新潟県天産誌』p.7-9の「踏査採集史」から引用する。右端の列には現在の地名を加えてある。

月日 場所 現在の地名
明治37年(1904) 8月5~6日 古志郡鋸山方面 長岡市 鋸山(765m)
8月10~11日 同 金倉山 小千谷市 金倉山(581m)
8月13~14日 中頚城郡米山 柏崎市/上越市 米山(992m)
8月18~22日 南魚沼郡苗場山 湯沢町/津南町 苗場山(2145m)
8月27~29日 南蒲原郡守門岳 三条市/魚沼市 守門岳(1537m)
9月5~7日 西蒲原郡弥彦山 弥彦村 弥彦山(634m)
明治38年(1905) 7月31日~8月11日 南魚沼郡内 南魚沼市
8月31日~9月3日 北魚沼郡駒ケ岳 南魚沼市/魚沼市 越後駒ヶ岳(2003m)
9月6日~10日 中魚沼郡七釜方面より南魚沼郡清水峠 十日町市七ツ釜~南魚沼市 清水峠(1448m)
明治39年(1906) 5月11~14日 東蒲原郡鳥居峠方面 阿賀町 鳥井峠
6月3~5日 古志郡栃堀方面 長岡市栃堀
8月24~30日 北魚沼郡須原方面より大白川を経て再び守門岳 魚沼市須原~大白川 守門岳(1537m)
9月4~7日 三嶋郡寺泊出雲崎方面 長岡市寺泊~出雲崎町
明治40年(1907) 8月4~6日 古志郡山古志方面 長岡市山古志
8月13~15日 南魚沼郡八海山 南魚沼市 八海山(1778m)
8月22~30日 三嶋郡寺泊出雲崎方面 長岡市寺泊~出雲崎町
明治41年(1908) 5月13~15日 西蒲原郡間瀬裏浜より出雲崎面 新潟市西蒲区間瀬~出雲崎町
8月6~14日 西頸城郡大蓮華山 糸魚川市 小蓮華山(2766m)/白馬岳(2932m)
8月20~22日 三嶋郡野積方面 長岡市寺泊
8月23日~9月3日 北魚沼郡銀山平より尾瀬沼方面 魚沼市銀山平~尾瀬沼(1600m)
11月12~14日 三嶋郡寺泊方面 長岡市寺泊
明治42年(1909) 8月15~21日 北魚沼郡六十里越より南蒲原郡浅草岳、八十里越方面 魚沼市六十里越~浅草岳(1585m)
8月25~28日 中頚城郡妙高山 妙高市 妙高山(2454m)
明治43年(1910) 5月20~23日 佐渡 佐渡市
9月23~25日 刈羽郡沿海地方 柏崎市
10月1~3日 中頚城郡笠島地方 柏崎市笠島
明治44年(1911) 8月10~25日 (分布比較の為県外)
8月31~9月3日 西蒲原郡角田山 新潟市西蒲区 角田山
12月26~29日 三嶋郡出雲崎方面 出雲崎町
明治45年/大正元年(1912) 3月23~26日 三島郡出雲崎方面 出雲崎町
6月7~9日 西頸城郡能生方面 糸魚川市能生
8月11~18日 岩船郡小国街道[1]より北蒲原郡飯豊山、及び岩船郡伊東岳、三面方面 村上市岩船、飯豊山(2105m)、以東岳(1771m)、村上市三面
9月7~11日 岩船郡蒲萄峠方面 村上市葡萄峠[2]
大正2年(1913) 1月1~3日 西頸城郡能生方面 糸魚川市能生
8月6~8日 刈羽郡小国、及び八石山方面 長岡市小国、柏崎市 八石山(518m)
大正3年(1914) 7月29日~8月1日 西頸城郡焼山より親不知方面 糸魚川市/妙高市 新潟焼山(2400m)
8月7~12日 (県外)
9月2~5日 刈羽郡黒姫山より東頸城郡内 柏崎市 刈羽黒姫山(891m)
大正4年(1915) 5月28~30日 西蒲原郡弥彦裏浜方面 新潟市西蒲区~長岡市寺泊
8月1~3日 三島郡出雲崎方面 出雲崎町
8月30日~9月2日 刈羽郡兜巾山方面 柏崎市 兜巾山(676m)
大正5年(1916) 7月31日~8月4日 岩船郡粟生島 岩船郡 粟島
8月22~31日 中魚沼郡より南魚沼郡三国峠方面 津南町/南魚沼市?~湯沢町 三国峠(1244m)
大正6年(1917) 8月1~6日 中魚沼郡秋成方面、及び中頚城郡富倉方面 津南町秋成、妙高市富倉(峠)
8月20~27日 (県外)
大正7年(1918) 5月27~29日 刈羽三島郡界地方 柏崎市~出雲崎町
8月5~8日 刈羽中頚城沿海地方 柏崎市~上越市
大正8年(1919) (県外)
大正9年(1920) (県外)
大正10年(1921) 8月9~14日 佐渡 佐渡市
8月25~30日 蒲原五郡 新潟市周辺?
9月28~30日 西頸城郡能生、及び青海方面 糸魚川市能生~青海
10月29~31日 中頚城郡杉野沢方面 妙高市杉野沢
大正11年(1922) 5月16~19日 東蒲原、北蒲原両郡 阿賀町/聖籠町/新発田市?
7月27~8月4日 岩船郡、北魚沼両郡 村上市岩船、小千谷市/魚沼市

特に前半期間はまだ若かったこともあり、大変お元気である。最初の年は毎週のように山登りに行っている。倒れないか心配になる。その後も長年に渡って2,000m級の山を何度か訪れている。どう考えても健脚である。別に登山自体が目的ではないので、山頂を目指すのではなく、登山道周辺を歩き回って標本採集していたのだろう。

移動手段について

新幹線も高速道路もない時代である。もちろんマイカーなどあるわけない。当時の公共交通機関となると鉄道(在来線)と乗合自動車(バス)だろうか。明治大正時代に開通していた県内の鉄道路線はどこだろう。新潟文化物語の「つながる!新潟の鉄道:前編」、『新潟県百年史 上巻』p.592-603、さらにWikipediaなどに書かれている情報をまとめると、だいたい以下のようになる(年代順)。

路線名 開通時期
北越鉄道 (信越本線) 1886~1888(明治19~21)年に直江津駅~妙高高原(田口)駅、1897~1899(明治30~32)年に直江津駅~沼垂(新潟)駅
魚沼鉄道 1911(明治44)年に来迎寺駅~西小千谷駅
越後鉄道 1912~1913(大正1~2)年に柏崎駅~白山駅、1916(大正5)年に西吉田駅~弥彦駅
村上線 (羽越本線) 1912~1914(大正1~3)年に新津駅~村上駅、1924(大正13)年に村上駅~鼠ケ関駅
頸城鉄道 1914~1916(大正3~5)年に新黒井駅~浦川原駅
北陸鉄道 (北陸本線) 1914(大正3)年に直江津駅~青海駅
岩越鉄道 (磐越西線) 1914(大正3)年に新津駅~豊実駅
栃尾鉄道 1915~1916(大正4~5)年に栃尾駅~長岡駅、1924(大正13)年に長岡駅~悠久山駅
長岡鉄道 1915~1916(大正4~5)年に寺泊駅~西長岡駅、1921(大正10)年に西長岡駅~来迎寺駅
上越北線(上越線) 1920~1925(大正9~14)年に宮内駅~越後湯沢駅

これらを見ると中村正雄が調査を続けていた時期は、県内の路線が次々に開通していた時期に重なっている。この鉄道網の拡大がなければ広い新潟県全体を調査することは難しかったかもしれない。その意味では近代的な交通網の整備によって、初めて個人による広域調査が可能になったと考えた方が良いのでは。なにしろ平日は仕事をしている在野の研究者である。仕事として調査に行けるフルタイムの研究者ではないし、牧野富太郎のように家族の資産を食い潰して日々植物に没頭し続けた人でもない。

鉄道駅から先はどうやって移動したのだろう。前記『新潟県百年史 上巻』によれば、当時の他の交通機関となると人力車、馬車、自転車、自動車となる。このうち馬車や自転車は当時それほど一般的ではなかった。人力車は今のタクシーのように使われていたが、しかし博物調査で山や森に行くのに人力車は使わない気もする。

乗合自動車(バス)があればそれに乗れたかもしれないが、当時どこまで普及していたのか不明である。新潟県で最初の乗合自動車は1910(明治43)年の来迎寺~小千谷間だったらしい。大正期にはまだまだ少なかったのでは。『全国乗合自動車総覧』(1934)で新潟県の乗合自動車一覧を見ると、95社の事業者が掲載されている。しかしざっと眺めると昭和期の開業が多いようで、大正期はそれほど多くなさそうだ。クルマの車種はどの事業者もシボレーとフォードの2社がほとんどを占める。国産自動車が広まる前の時代である。

いずれにせよ、そもそも最終目的地の多くが僻地である。やがて公共交通機関がなくなって最後は徒歩になるだろう。

川蒸気について

もう一つ、今ではほとんど忘れられた交通手段がある。川舟である。河川舟運(しゅううん)はかなり古い時期から行われており、特に信濃川水系は鉄道以前の物流を担っていた大動脈だった。中村正雄が川舟で移動したという直接の記録は見つからないが、明治大正時代には普通の人が使うような船便がそれなりにあったらしい。

写真で語る新潟県の百年』(1973)のp.90には、当時の魚野川を進む川舟の写真が掲載されている(年代は不明)。六日町~長岡の定期便が就航していたようだ。見た目は屋台舟っぽい。舟に提灯がたくさんぶら下がっている点は謎だが、もしかしてお祭りだったのだろうか。

この資料はなかなか面白くて、p.91-92には明治期の信濃川で運行していた川蒸気船の絵や写真が掲載されている。これは安進社という会社の蒸気船らしい。1873(明治6)年から新潟~長岡を就航しており、1912(大正元)年頃まで存続していたようだ。『新潟県百年史 上巻』p.581を読むと、当時の楠本正隆県令(県知事)からの依頼(というか命令)を受けて、地元の有志たちが(嫌々ながら)新潟川汽船会社安全社を設立したのが始まりだという。このときの中心人物の一人が二代目斎藤喜十郎(1830-1904)[3]である。いざ川蒸気の会社を始めてみると大勢の客が利用し、かなり儲かったようだ。

明治期の水運はずいぶん繁盛したらしい。有名な北前船の全盛期は明治期だというし、当時の新潟市で海運といえば越佐汽船(後の佐渡汽船)である。その設立者の斎藤喜十郎は、水運で得た巨額の利益で金融業にも進出し、経営に関わった新潟商業銀行(新潟銀行)は現在の第四北越銀行へとつながっている。水運自体は大正時代になると徐々に衰退し、物流は鉄道へと置き換わっていく。この時代はそんな交通網の転換期でもあった。

ところで、中村正雄が新潟県に赴任した1900(明治33)年には、新潟と山形をつなぐ羽越本線はまだ開通していない。引越のときの移動はどうしたのだろう。出羽街道をてくてく歩いて来た可能性もあるが、それよりは船便を使ったのではないか。『新潟県百年史 上巻』p.588-589を見ると、山形県の酒井港と新潟港のあいだには定期便があったようだ。酒田港から船に乗って新潟港(または柏崎港)まで来れれば、あとは開業済の信越本線で長岡駅まで行けるはず。そして長岡駅を降りれば旧制長岡中学校までは徒歩5分である。以上すべて推測だが。

ちなみに当時の長岡駅は、1898(明治31)年に開業してまだ2年の出来たてホヤホヤで、上記『写真で語る新潟県の百年』のp.93には開通当時の長岡駅の写真が掲載されている。現在の新幹線駅のイメージとは全く一致しない。

総調査日数と総移動距離について

中村正雄は約20年間の調査期間に、一体どれだけの時間を使い、どれだけの距離を歩いたのだろう。正確な値を知るのは難しい。特に中越地方の日帰り調査については日数も地点も記録が残っていない。それでもあえて推定してみたい。

まず1年のうち12月から2月は雪に覆われるため、屋外の調査は冬休みとなる。よって調査可能な期間は残りの9ヶ月間。平日は学校の授業があり、週末もさすがに毎週調査に赴くことは難しいだろう。月に2回行くのがせいぜいではないか。長期休暇の調査日数は年によって異なり、県外分の日数は不明だが、ここでは1年に2週間ほど遠征したとする。すると調査に使った日数は年間 9ヶ月 × 2日 + 14日 = 32日/年になる。これを20年間続けると 32日 × 20年 = 640日で、これが総調査日数になる。

次に、1日当たりどのくらいの距離を歩いたのか。江戸時代の人は1日に十里(40km)歩いたというから、明治期の人も1日30kmくらいは歩けただろう。しかし山野の調査となると「なんか生えてないかな」「なんか昆虫いないかな」とキョロキョロしつつ、時には標本採集しつつ歩くことになる。しかも足場の不安定な山道が多い。となると30kmはまず無理。ちなみに現代人の自分の場合、写真撮影しながら半日歩き回っても7kmがせいぜいである。ここでは中村正雄の移動距離を仮に1日10kmとしてみる。つまり1日6時間で平均時速1.7km/h、かなりゆっくり歩くという推測である。

すると総移動距離は 640日 × 10km = 6400km という計算になる。本州の長さが約1500kmなので2往復分を越える。日本の1里は3.9km(だいたい1時間で歩ける距離)なので、約1640里くらい。以上ここまでの推定にはかなり誤差があるだろうが、歩いた距離は少なくとも千里を越えるだろう。


標本を収集します

各地を巡りながら標本を採集していきましょう。

採集方法について

植物の採集となるとそのスタイルはだいたい決まっている。おそらく標本を入れるブリキ製の胴乱を肩から掛けて、腰にハサミやスコップをぶら下げて、時にはノコギリで枝を切りながら、野山をウロウロして標本採集していたのだろう。今では胴乱の代わりにビニール袋などに保存するだろうが、やること自体はあまり変わらない。

昆虫採集のスタイルも、今とあまり変わらないかもしれない。使うのは捕虫網(虫取り網)、虫かご、殺虫剤(毒瓶)などだろう。吸虫管は使ったのだろうか。時代は少しずれるが『昆蟲』(1939)の記事によればライトトラップも使っていたようだ。

さらに鉱物採集が加わると、今度はハンマーやタガネなども持って歩くことになる。

もう少し大きな動物(脊椎動物)の調査はどうやったのだろう。前述の『新潟県博物調査会誌 第6号』には中村が書いた長岡の鳥類目録が掲載されているのだが、その冒頭に以下の一文がある。

本目録は余が本県より狩猟上特別の許可を得て捕獲せしもの其他(そのほか)により編製せり

鳥を捕獲したとはっきり書いている。このあと150種類以上の鳥類の名前が列挙されているが、全種でなくとも多くの種類を捕獲して確認したようだ。県から特別の許可を得たとあるから、調査活動に対して狩猟許可が下りていたらしい。具体的に一体どうやって捕まえたのだろうと思っていたら、『天産誌』のウミウの項に次の記述を見つけた。

2回銃獲を試みしも着弾外にて捕獲するを得ず故にウミウなることを確かむる(あた)わず (p.359)

どうやら猟銃で撃っていたらしい。中村正雄本人が撃ったのか、それとも同行者が撃ったのかは不明である。改めて大正時代の博物学雑誌を眺めてみると、猟銃の広告が掲載されていたり、銃猟と博物学なる文章が掲載されていることに気づく。かなり意外に思えるが、当時としては博物学者と猟銃は普通の組み合わせらしい。まあ山や森に分け入るとクマやイノシシに遭遇する可能性もあるので、護身も兼ねて銃を持っていたのかも。

以上まとめると、動物・植物・鉱物すべてを調査しつつ採集していた博物学者・中村正雄の見た目は、まず胴乱や虫かごを下げて、ハサミ、スコップ、ノコギリ、ハンマー、タガネなどの工具をぶら下げて、さらに虫取り網、猟銃を持って歩き回っていたことになる。どう見ても怪しい人である。さすがになんか違う気が。

収集した分量について

『天産誌』序文によれば、中村は新潟県各地で以下の生物種、鉱物、古生物を確認している。

  • 植物:約3,300点
  • 動物:約2,900点
  • 鉱物および古生物:約380点
  • 合計:約6,600点

ただし、この全てを標本として採集したわけではない。信頼できる他の研究者の報告も一部に取り入れている。さらに下記の種類は目録に含まれていても、標本採集したとはちょっと思えない。

  • ツキノワグマ
  • ウシ
  • アザラシ
  • トド
  • シャチ
  • ザトウクジラ
  • ナガスクジラ

もちろん中村先生が各地でクマと格闘したりクジラを狩っていた可能性はゼロではない。しかし博物学者は百獣の王ではないし、大山倍達でもエイハブ船長でもない。が、ここで一つの可能性に思い至る。なにせ博物学の師匠はあの松森胤保である。戊辰戦争を戦い抜いた歴戦の強者である。そんな師匠から奥義・庄内暗殺拳を伝授され、柏崎沖でシャチと戦っていた可能性は残る。

まあ、全種類の標本までは行かなくても、それでも大量の標本があったと思われる。どこにどうやって収蔵していたのだろう。学校にあったのか自宅に置いてあったのか。詳細は不明である。いずれにせよ周囲から「また増えてるし」と毎回怒られていた可能性がある。

スケッチと写真について

『天産誌』にはいくつか動植物の図譜が掲載されている。件数は少ないがここだけは動物・植物図鑑である。図は中村正雄が自分で描いている。シンプルな線画である。

中村は標本の写真も撮影していたらしい。ただしその後のトラブルによって写真は失われて、ほとんど掲載されていない。刊行された『天産誌』に掲載されているのはハチク Phyllostachys nigra の写真2枚のみである。

1900-1920年代となると、すでに写真という技術は一般的だったのだろうか。このあたり当時の状況はよく調べていない。数千万画素のミラーレス一眼レフデジタルカメラを持ち歩ける時代ではない。当時のカメラはまだまだ高価で重いだろう。個人で所有して採集現場まで持っていったとは思えない。標本を収蔵していた場所に写真技師を呼んで撮影していたのか、もしくは写真館に標本を持ち込んで撮影していたのでは。

標本はどうなったのか

その後これらの標本がどうなったのかは不明。ごく一部の標本は博物館などに収蔵されていることを確認できた(第5部参照)が、おそらく大半は散逸して現存していないと思われる。


標本を同定します

当時はスマートフォンもインターネットもない時代である。写真をオンラインで送ることなどできない。テレビどころかラジオもない時代である。そんな時代に大量の標本をどうやって同定したのか。これがよくわからない。

中村正雄は独断を避けるため、各分野の専門家に同定を依頼したという。地方にある標本を、遠方の専門家にどうやって同定してもらったのだろう。かさばらない標本ならば郵送して調べてもらうことは可能だろう。でも本当にそれを数千個の標本について行ったのだろうか。もしくは専門家が新潟を訪れたタイミングに確認してもらったのか。ひとまず謎である。

『天産誌』の植物分類は今とは少々異なっている。現代の植物分類法はゲノム解析に基づいたAGP体系にほぼ統一されているが、『天産誌』では当時の「エングレル氏」の分類法、つまり今でいう旧エングラー体系に基づいている。

当時どのような参考文献を使っていたのかは判らない。『天産誌』には参考文献リストは掲載されていない。第2部で述べたように、おそらく当時の植物図鑑や動物図鑑を多用していたはずである。


原稿を執筆します

いつ頃から原稿としてまとめ始めたのかは不明である。おそらく調査期間の最後の数年間あたりで、調査しながら原稿を書いていたのではないか。

まず6,600項目の動/植/鉱物とその観察場所の情報を、どうやって整理していたのだろう。記憶だけで整理できる規模ではない。何らかの「システム」を使って情報管理していたはず。最も可能性が高いのは情報カードによる整理だろう。梅棹忠夫が『知的生産の技術』を書いたのは1969年だが、それ以前から研究者たちはカードを使って情報整理を行っていた。レファレンス書の歴史を追ったアン・ブレア『情報爆発 初期近代ヨーロッパの情報管理術』(中央公論新社)によれば、17世紀にはトマス・ハリソンがノート・クロゼットなる紙片を使った情報整理術を使っていた。分類学の父カール・フォン・リンネはカードシステムの発明者とも見なされているようだ[4]。中村正雄も大量のカードやノートと格闘していたのでは。

そして原稿はすべて手書きである。日本出版学会の「原稿用紙の歴史」という研究報告によると、明治期にはすでに縦書きでマス目が並んだ原稿用紙が使われていたらしい。しかしそれは文系の文章の話であり、『天産誌』のような理系の文章にはラテン語の学名や英語のテキストが多数現れるので、原稿も横書きのはずである。

平日の昼間は仕事なので、執筆時間は帰宅後の夜中、もしくは週末だろう。そういえば当時は夜間に十分な照明を使えたのだろうか。電気事業連合会の「電気の歴史年表 大正から昭和へ」を見ると、1912年には「東京市内に電灯がほぼ完全普及」とある。となると新潟県でも1920年代ならば多くの世帯に電灯は普及していたのでは。明治期にはまだ石油ランプ(灯油ランプ)も使っていたかもしれない。

経緯はあれこれ推測するしかないのだが、ともかく大正11年(1922)末には550ページに及ぶ原稿がほぼ完成していたと思われる。序言(まえがき)の最後は以下の日付で終わっている。

大正十一年十月天長祝日の佳節(かせつ)()たりて

そして翌年の大正12年(1923)、原稿は東京都内の印刷所に持ち込まれ、中村は柏崎中学校から宇都宮高等農林へと異動になった。実に20年をかけた作業の集大成として、いよいよ完成と出版は目前となった。

さて、ここでもう一度この日付をよく見て頂きたい。

大正12年

おわかりだろうか。とても嫌な予感がしないだろうか。

灰燼に帰せり

大正12年9月1日に発生した関東大震災は、南関東一円に甚大な被害をもたらした。『天産誌』の再序には以下のように書かれている。

(たまた)ま東都の大震災に遭遇し、既成印刷は云ふに及ばず、原稿を()げて(ことごと)灰燼(かいじん)に帰せり。

東京都内で印刷中だった『天産誌』は地震と火災によって失われる。印刷済みページどころか原稿もすべて灰と化した。写真の原版も消えた。その前後の状況について中村正雄が書き残した文章は、この一行しか見つからなかった[5]。そのときの想いは果たしてどのようなものだったか。

国立科学博物館も大震災により施設と標本を失っている。近代の博物学史上でも大事件だったのである。関東大震災で原稿を失った人は他にも結構いる。近代日本における植物図鑑の発達とその背景によれば、小笠原利孝のロングセラー『実用新案普通植物図解』の原稿も焼失した。牧野富太郎・田中貢一が当時準備していた図譜も焼失している。

時と場所はちょっと違うが、似たような事例がもう一つあった。『越後の植物誌』の野田光蔵(1909-1995)である。ただし原稿を失ったのは、その前の『満州植物誌[6]のほうで、日中戦争末期のことだった。下記の資料によれば経緯は波乱万丈そのものである。

野田光蔵は満州からの引き揚げ組なのだが、満州を調査しながら書き溜めた『満洲植物誌』の原稿は終戦直前の混乱によって行方不明になる。野田は中国大陸に留まり、国共内戦の大混乱の中、改めて一から書き直している。しかも、書き直した原稿も昭和28年の引き揚げ時、中国政府に没収されてしまう。原稿が返還されたのは昭和30年になってから。そこからさらに16年かけて、出版は昭和46年(1971)だという。鋼の意志にも程がある。

新潟の自然誌に関わる人は一度原稿を失う運命でもあるのだろうか。バックアップはきちんと取ろうと思った。

原稿を一から書き直します

ほとんどの原稿を失ったと思われる中村だが、それでも一から原稿を書き直し始める。このとき先生、58歳になっていた。

爾来(じらい)幸にして再印刷の機会を得、再び稿を起さんとせし

捲土重来いまだ知るべからず。中野財団の支援は続いていた。被災した印刷会社も復興と再刊に向けて動き始める。

そして中村はおそらく2年ほどかけて原稿を再完成させる。最初の原稿は550ページだったが、再執筆した原稿は700ページ近くになっていた。むしろ増えてませんか。


印刷して出版します

パワーアップして帰ってきたその原稿は大正14年(1925)、印刷に回される。『天産誌』の奥付ページを見ると以下のように記載されている。

大正十四年十二月十八日印刷
大正十四年十二月二十日發行

著者  中村正雄

発行者 中野財團
    新潟縣廰内

印刷者 神谷岩次郎
    東京市日本橋区兜町二番地

印刷所 東京印刷株式會社
    東京市日本橋區兜町二番地

中野財團藏版

印刷所が今の兜町にあったというのは面白い。今ではあまり出版のイメージがない。現在の東京都中央区だが、当時は東京府東京市日本橋区だった。東京印刷株式会社や神谷岩次郎についてネットで検索すると、当時出版された他の書籍がいくつもヒットするが、会社の詳細は不明。

東京都 土地履歴マップを見ると、兜町あたり[7]は軟弱地盤。もともと沼地を埋め立てた場所である。関東大震災では焼け野原と化している。それでも2年後の大正14年末には工場が稼働していることになる。急速に復興していることが分かる。

そして今度こそ地震にも火災にも遭わず、関東大震災から2年後の大正14年末、ついに出版にこぎつける。おめでとう😀😀😀

とはいえ、その時点で資料の多くは散逸しており、挿入するはずの写真も震災で焼失し、活字不足で学名にイタリック体を使えず、本人としては色々と悔いが残るものだったらしい。経緯を考えれば出版できただけでも大したものだと思うが。

「再序」の最後は以下のようにまとめられている。

大正十四年九月彼岸會(ひがんえ)の日に(あた)りて、
本書の犠牲となりし幾多生物の精霊に供養しつつ

宇都宮にて著者記す

すでに還暦を迎えていた中村先生、かって倒したクマやシャチに思いを馳せていたに違いない。

なお、同じ大正14年(1925)には、牧野富太郎『日本植物図鑑』と村越三千男『大植物図鑑』が刊行され、どちらも人気となった。メジャーな植物図鑑が生まれて脚光を浴びる裏側で『新潟県天産誌』のようにマイナーな地方博物誌が刊行されていたことも記憶に留めておきたい。


図書館に寄贈します

『新潟県天産誌』は一般の書店で売られた本ではない。非売品として図書館や教育機関に配布された本である。いったい何冊くらい刷られたのかは不明。なにせ100年近く前の書籍なので、戦火で焼失したり、劣化で廃棄された分もあると思われる。

現存しているのは何部くらいあるのか。図書館の蔵書検索システムで探してみた(2023年3月)。1箇所で複数冊所蔵している場所もあるようだが、それぞれの蔵書数まではカウントしていない。おそらく印刷されたのは100部くらい、検索した2023年3月時点で現存するのは80~90部くらいでは。

国立国会図書館

  • 国立国会図書館 (マイクロフィルム所蔵)

大学図書館や研究機関

以下はCiNiiで見つかる20件

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  • 埼玉大学 図書館
  • 玉川大学 教育学術情報図書館
  • 筑波大学 附属図書館 中央図書館
  • 帝京大学 図書館
  • 東京大学 総合図書館
  • 東京大学 理学図書館
  • 奈良女子大学 学術情報センター
  • 広島大学 図書館 中央図書館
  • 福島大学 附属図書館
  • 北海道大学 附属図書館

以下はCiNiiで見つからない分 (他にあるかも)

都道府県の図書館

図書館蔵書検索サイトのカーリルでそのまま検索してもヒットしない。しかしカーリルローカルで都道府県ごとに検索すれば見つかるので、47都道府県すべてで探し回った結果と、さらにNDLサーチ美術図書館横断検索ディープライブラリーなどの検索結果をまとめると以下のとおり。

  • 新潟県
    • 新潟県立図書館
    • 新潟市立図書館
    • 三条市立図書館
    • 新発田市立図書館
    • 五泉市立図書館
    • 長岡市立図書館
    • 柏崎市立図書館
    • 見附市立図書館
    • 小千谷市立図書館
    • 十日町情報館
    • 魚沼市立図書館
    • 上越市立図書館
    • 佐渡市立図書館
  • 山形県
    • 鶴岡市立図書館
  • 福島県
    • 福島県立図書館
  • 石川県
    • 石川県立図書館
  • 東京都
    • 東京都立図書館
    • 江東区立図書館
    • 中央区立図書館
  • 京都府
    • 京都府立図書館
  • 大阪府
    • 大阪府立図書館

古書店

日本の古本屋サイトで検索すると数件ヒットする。古書市場で流通して個人所蔵となっている分もあるようだが詳細不明。おそらく図書館や学校から払い下げられた分と思われる。


次回予告

今回(4)では『新潟県天産誌』が一体どうやって作られたのか、なるべく具体的に考えてみた。明治大正という時代を考えると、単に移動するだけでも今より遥かに大変だっただろう。いわんや原稿執筆をや。経緯を考えればよく出版までこぎつけられたと思う。次回(5)ではこの本の目録を全ページ斜め読みしてみたい。


  1. この小国街道は、村上市と山形県小国町のあいだの小国街道(米沢街道)なのか、それとも村上市と鶴岡市をつなぐ小国街道(出羽街道)なのか、よくわからない。おそらく前者のような気がする。 ↩︎

  2. この蒲萄峠がどこを示すのか当初分からなかったが、どうやら山形県鶴岡市と新潟県村上市をつなぐ出羽街道(小国街道)にある葡萄峠と思われる。第37回 小国街道(出羽街道)鶴岡から村上 山形県・新潟県などを参照。 ↩︎

  3. 4代目の斎藤喜十郎(1864-1941)とは別人。同名の2代目である。斎藤家の当主は代々喜十郎を襲名していた。伝統芸能の世界と一緒である。 ↩︎

  4. https://en.wikipedia.org/wiki/Index_card#History も参照。 ↩︎

  5. 未見の随筆などを探し回ればどこかに記述があるかもしれないが未確認。 ↩︎

  6. 『満州植物誌』は略称で、正式な書名は『中国東北区(満洲)の植物誌』。 ↩︎

  7. 土地履歴マップの画面右側にある「土地条件図」チェックボックスをオンにすると、兜町の周囲はほとんど盛土地・埋立地の色になる。 ↩︎