新潟県天産誌を読む(3) 石油の匂いは地の底から

前回(2)では『新潟県天産誌』が作られた当時の時代背景について調べてみた。明治大正期は近代日本にとって荒削りな青春時代という雰囲気であった。今回(3)では中村正雄の周りにいた同時代の人々について調べてみたい。今回もまた国立国会図書館や各地の博物館や公文書館などのリンクだらけである。

連載インデックス


目次


天産誌を取り巻く人たち

教え子について

教諭としての中村正雄は、明治33年(1900)から大正2年(1913)まで旧制長岡中学校、大正2年(1913)から大正12年(1923)まで旧制柏崎中学校に赴任していた。担当していたのはもちろん博物学。

1900年度から1922年度までの間に旧制中学校に在籍していた生徒ということは、1884年生まれから1910年生まれの世代に当たる[1]。この世代で長岡中学校や柏崎中学校に在籍していた人をWikipediaで探してみると、1886年生まれの田村文吉佐藤正四郎、1889年生まれの川上四郎、1891年生まれの松岡譲、1892年生まれの堀口大學、1893年生まれの高野素十、1894年生まれの中島慶次あたりが引っかかる。留年や病気などの諸事情で数年の誤差はありそうだが、もしかして中村先生の博物学講義を受けていたかもしれない。

旧制中学校は今の中学から高校の途中に当たる。1年生で入学して5年生で卒業するまで、だいたい12歳から16歳。当時はどのような学校生活だったのか。新潟県立文書館では(旧制)巻中学校の生徒、渡邉くんの日記(1907)が紹介されている。

授業があり、部活動があり、修学旅行があり、夏休みがあり、試験がある。成績表が戻って来るまで渡邉くんは心配でたまらない。がんばれ渡邉くん。というか今とあまり変わらない。現在につながる学生生活の雛形のようなものが、明治末期にできあがっていることがわかる。

当時の長岡中学校には高野くんという生徒も在籍していた。この高野くんは明治34年(1901)に卒業したあと、海軍兵学校に入り、山本家の養子になって改姓し、あれよあれよという間に出世して、最後は連合艦隊司令長官にまで上り詰める。名は五十六という妙な名前であった。

つまり山本五十六(1884-1943)と中村正雄が長岡中学校にいた期間は、1年ほど重なっている。博物学の授業を直に担当していたかどうかは不明だが、その頃の中学校は士族など上流階級の子息が進むものだし、生徒数もそこまで多くはなかっただろう。そこに「五十六」などという妙な名前で負けず嫌いの子がいれば覚えていたかもしれない。その後の大出世については、同時代人なら当然知っていたはずである。

中野財団と新潟郷土博物館について

『新潟県天産誌』の出版元には中野財団とある。中野財団ってなに?と思って調べてみた。

中野財団というのは新潟の石油王こと中野貫一(1846~1928)が創設した財団らしい。新津油田で財を成した中野は、教育や社会貢献に熱心で、そのために中野財団を設立した。石油王の財団ということはロックフェラー財団みたいなものか。今でも中野の邸宅が中野邸記念館として新潟市秋葉区に残っている。

新潟県百年史 下巻』(1969)によると、中野財団の設立は1918(大正7)年12月13日、第一次世界大戦が終わる少し前である。『鶴堂中野貫一翁略伝』(1934)によれば、中野貫一は金百万円(当時)を新潟県に寄付し、その資金で財団が創設されたようだ。つまり中野財団は新潟県庁内の組織として存在していた。名称としては新潟県社会課内中野財団という表記も見つかる。

財団の刊行物としては『新潟縣社會事業』(雑誌, 1938-1943)、『製糸工場の概況 : 女工紹介資料』(1935)、『社会法規類集』(1928)、『越佐社會事業』(1929)などが残っている。財団の中心的な活動は社会福祉方面だったことが分かる。

ところでこの中野財団は、昭和初期には「新潟郷土博物館」という施設の運営母体でもあった。この博物館については国立国会図書館でいくつか資料が見つかる。以下のページでは当時の陳列品の解説が読める。

歴史部、産業部という区分でそれぞれの展示品がリスト化されている。勾玉、土器、石器、古文書、小判、石油、油田ジオラマ、鉱物、隕石、昆虫、織物、漆器、金物などが並んでいる。中には県内で見つかった「ステゴドン下顎骨」などという品目もある。今でいう歴史博物館と科学博物館が合体した、なんでもありの博物学コレクションである。ヴンダーカンマー(驚異の部屋)っぽくて楽しそうだ。この解説書の最後には「トキ」という項目がある。当時の時点で、

今や著しく減少して我が国にては本県佐渡に棲息するのみ(但し石川県羽咋に極少数棲息)なれば捕獲を禁止される (p.77)

と記載されている。はて、この標本はその後どこに行ったのだろう。国内の自然史標本のデータベースであるサイエンスミュージアムネットで「Nipponia nippon」を検索しても、新潟県内に収蔵されているトキ標本はヒットしない。しかし新潟県立自然科学館にはトキの剥製があるらしい。よくわからないな。

トキ標本はともかく、陳列品解説書の最後の奥付ページを見ると、新潟郷土博物館の住所は新潟市一番堀とある。この建物、今でも現存している。白山公園にある新潟県政記念館である。しかも重要文化財である。1882年(明治15)に建設されて、1932年(昭和7)までは新潟県会議事堂として使われていたが、そのあと1934(昭和9)年11月5日から昭和20年(?)前後まで、新潟郷土博物館として使われていたらしい。Googleマップのストリートビューで見ると、当時そのままの形で建物が残っている。2階建ての瀟洒な洋館で、中央のバルコニーあたりに時代を感じる、いわゆる擬洋風建築である。

なお、中村正雄が新潟に赴任していた当時は、まだ郷土博物館は存在していない。もうちょっと後の昭和初期の施設になる。だがそれ以前から中野財団は存在していた。『天産誌』が出版されるのは1925年なので、石油王もまだご存命である。


一府十一県連合共進会について

中村正雄が新潟に赴任した翌年(明治34年/1901)のこと。郷土博物館ができる30年前の白山公園では、一府十一県連合共進会という一大イベントが開催された。今でいう物産展というか博覧会である。

中村先生も生徒たちを引率して見学に行っている。そのときの見学記が以下のページで読める。これがなかなかおもしろい。今から120年前、殖産興業の物産展と博物学が融合している雰囲気なのである。後年の郷土博物館にちょっと似ている。

会場では昆虫標本の前で多くの人が足を止めていた。700種類1200点に及ぶ大量の標本は、中蒲原郡・私立昆虫試験場(当時)の安倍九二によって集められたもので、新潟にそのような人がいることを知って驚嘆した、と書いている。

ただ、標本に書かれた分類や学名については「この分野は素人なのですが」と言いながら記憶だけで間違いをバシバシ列挙している。先生こわい。中村が文検に合格したその年に当たるのだが、当時すでに博物学「チョットデキル」先生であった。県内各地を本格的に調査し始めるのは、ここから4年後あたりと思われる。

見学記の最後では、石油の展示品にも触れている。瓶詰めの原油や精油がずらりと並び、油田ジオラマらしきものも展示されていた。そして、他県から来た人間からすると新潟はどこに行っても石油の匂いがする、空気まで石油に覆われている、と書いている。これは比喩ではなく、物理的に石油臭がしていたらしい。さらに「婦女子に到るまで石油の株券売買に手を出して」という一文が興味を惹く。オイルマネーのバブル時代だったのだ。まさかそのオイルマネーのお陰で自著が世に出るとは思っていないだろうが。

ここで脇道にそれる。上記の見学記のすぐ後(p.13)に、鳥羽(とば)源蔵(1872-1946)が投稿した「昆虫採集旅行記」が掲載されている。鳥羽は明治大正期の博物学雑誌を眺めているとよく名前が出てくる人で、岩手県の陸前高田市を中心に活動していた博物学者である。動物、植物、考古学など幅広い分野で多数の標本を残している。鳥羽のコレクションは陸前高田市立博物館に収蔵されていた。ところが2011年3月11日、博物館は東日本大震災で津波に飲み込まれて全壊。職員の多くが亡くなり、大量の標本は海水に没して砂泥にまみれる。

これを受けた日本各地の自然史博物館では大規模な標本レスキュー活動が行われた。徳島県立博物館のウェブでは、鳥羽の植物標本を丹念に修復した様子を「東日本大震災で被災した標本の修復協力について」(2012)や研究報告(PDF)で読むことができる。また標本レスキューの中心拠点となった岩手県立博物館の状況は「被災した生物標本の救出と復元」(2011)などに書かれている。これらの活動の結果として、鳥羽のコレクションが改めて精査されることになった。

半ば忘れられていた標本が100年後の大震災によって被災し、修復のために一つ一つ精査した結果、その歴史的・文化財的価値が再評価される。なんとも不思議な経緯である。日本各地にまだ似たような歴史的標本が眠っているのかもしれない。その後、陸前高田市立博物館は再建され、11年後の2022年11月に再オープンしている。


太田政弘・新潟県知事について

話を元に戻す。『天産誌』出版に際して資金提供したのは中野財団のオイルマネーだった。どのくらいの資金が提供されたかは不明だが、大部の著作なのでそこそこの金額が必要だったのではないか。『天産誌』再序によれば、校正時点で内容は550ページに達していた。

『天産誌』の序文は、この中野財団の理事長であった太田政弘(1870-1951)、新潟県知事(任期は1919年4月~1923年6月)が執筆している。大正12年紀元節とあるので1923年2月、知事としての任期の終わり頃になる。太田はこの少し後の1923年6月には新潟県知事から愛知県知事に異動している。

実はこの中村正雄と太田政弘、同郷の人である。2人とも山形県鶴岡市生まれで、しかも2人とも庄内藩の藩士の家だった。年齢も4歳しか違わない。もしかすると『天産誌』以前から何らかの関わりがあったかもしれない。

当時の一高、東大、そして高等文官試験に合格した太田政弘はスーパーエリートの一人で、各地の警察部長、県知事、警視総監、貴族院議員、関東長官[2]、そして台湾総督などを歴任した。あちこちで県知事を務めている太田の経歴は今見ると不思議だが、当時の知事は中央政府が任命するもので、知事が公選制になったのは戦後に地方自治法が施行されてからである。戦前の知事は高級官僚の中から任命されていた。

太田政弘という人は、巨漢で酒も喧嘩も気も強いという豪傑タイプだったらしいが、頭も飛び抜けて良かったのだろう。以下のページでは昭和初期に書かれた人物評が読める。貴族院時代の太田政弘は「重厚の人格者」とある。なんのことやら。

『新潟県百年史』によれば、新潟県は明治期を通して就学率の向上を目指していたが、大正期になると太田政弘知事の時代に中等教育が一気に拡張された。旧制中学校や高等女学校などが増設され、進学者数も大きく増加している。その中等教育の現場にいた中村にとって、太田の存在は大きな影響を与えていたことになる。

憶測に過ぎないが、『天産誌』が出版までこぎつけた背景には、この太田政弘の存在が大きかったかもしれない。なにせ地方博物誌がほぼ存在していない時代である。中村を支援できる立場と資金を兼ね備え、しかも中等教育を重視していた太田がいなければ、果たして『天産誌』のような大著が地方の一教諭に出版できたかどうか、ちょっと怪しい気がする。おまけに序文の執筆時期は太田が県外へ異動する直前で、タイミング的には危うく間に合ったようにも見える。パトロンは大事。

ただし後に述べるように、そう簡単には終わらなかった。太田の序文は1923年初めだが、実際の出版は1925年末。そこに至るまでの2年間の波乱はこの時点でまだ誰も予想していない。


博物学者・松森胤保について

もう一人、最重要人物がいる。それは博物学者・松森胤保(たねやす)(1825-1892)だ。この人もやっぱり庄内藩(山形県鶴岡市)の人である。

庄内藩士の家に生まれた松森胤保は万能の人だった。今は博物学者として知られているが、当時は松山藩の家老を務め、戊辰戦争では隊長として各地を転戦して全戦全勝[3]、明治維新後は大参事(副知事)、校長、県会議員、戸長(行政区長)などを歴任している。江戸末期の博物学者ということは、日本に近代科学が到来する直前直後あたりの人である。

ジャパンサーチ松森胤保を検索すると、さまざまな本草書の図譜が出てくる。これらを眺めるのが早い。図譜の絵柄にはどこか江戸期の空気が漂っている。松森は当時としてはかなり科学的な人だったようだが、それでも江戸期の本草学者だった。中村は松森の影響を受けているが、それでも近代的な科学者だった。松森は『両羽植物図譜』で生物の学名を使わなかったが、中村は『天産誌』で学名を使っている。松森が維新前の博物学者だとしたら、中村は維新後の博物学者だった。

酒田市立図書館 両羽博物図譜の世界 松森胤保の紹介を見ると、晩年の松森は明治12年(1879)から鶴岡市に住んでいた。荘内日報社の記事によれば、松森が逝去する明治25年(1892)までの間のどこかで、中村正雄は松森胤保から教えを受けていたらしい[4]。詳細は不明だが、中村は1867年生まれなので十代半ばあたりか。郷土の大英雄である博物学者から大きな影響を受けたことは、容易に想像できる。

こうして見ると『新潟県天産誌』という書籍は、新潟県内から生まれたというより、庄内藩士の人脈の上に生まれたと考えるほうが正しい。庄内(鶴岡)にあった博物学の系譜の上に『天産誌』が成り立っていると見るべきだろう。中村正雄も太田政弘もたまたま仕事で新潟にたどり着いたが、その後は2人とも仕事で県外へと移っている。その絶妙なタイミングの中から『天産誌』が生まれたのでは。

実際、これ以前に新潟で編纂された本草学の書物はほとんど見当たらない。中村正雄は『天産誌』序文で、新潟には動植物のまとまった資料がない、と書いている。つまり博物学の後進国といえる土地に赴任したのである。目の前に広がるのは、まだ誰も調べていない未踏の大地。ならば自分がやってやると鴻鵠の志を抱いたのではないか。これは燃える展開の予感。このとき中村先生、33歳であった。

なお、一応書いておくと、当時の新潟には動植物の資料こそ少ないが、地下資源など地質学に関する資料は豊富だった。なにせ石油王が生まれるような土地である。当時あちこちで油田探しが行われていた。うちの近所にも油田があったくらいだ。儲け話となると全員目の色が変わる。


庄内の博物学者たちについて

中村正雄が石油だらけの新潟県に移る以前、まだ山形県内で教師をしていた頃、周囲には多くの博物学者がいたようだ。そのあたりは詳しく調べていないので、少し紹介するだけに留める。

長澤利英

中村正雄が荘内中学校に赴任していた当時、同僚に博物学者・長澤利英(1850-1905)がいた。このときの中村正雄は庄内地方の植物研究に没頭していたようだ。下記の記事には標本が山のように積まれていたと書かれている。それ見たかった。

長澤は山形県師範学校にいた時代、明治天皇の御巡幸時に「御前実験」を行ったという。そのときの生徒の一人が次に述べる結城嘉美である。なお『新編庄内人名辞典』には長澤の名前が見つからないので、本項は上記の新聞記事に基づいている。

結城嘉美

結城嘉美(1904-1996)は『山形県植物誌』(1934)や『Flora of Tobishima』を編纂した、山形県を代表する植物学者の一人である。結城は山形県立博物館の初代館長でもある。山形県立博物館のウェブでは結城が集めた植物コレクションを写真付きで眺めることができる。

重要人物の割に、この人に関する情報は意外に見つからない。WebCat Plusで見つかる以外、荘内日報社の記事や『新編庄内人名辞典』に同氏の項目は見当たらない。ウィキペディアでもコトバンクでもヒットしない。

村井貞固

村井貞固(さだたか)(1885-1962)は、鶴岡市の植物学者である。この人もやっぱり庄内藩士の御子息であった。荘内博物学会の中心となって活動していた。

『新編庄内人名辞典』p.622には同氏の項目がある。

斎藤宗雄

斎藤宗雄(1877-1957)は、鶴岡市の動物学者である。荘内中学校の博物学教員として47年間も在籍していた。荘内博物学会を組織した人物でもあった。

『新編庄内人名辞典』p.313には同氏の項目がある。


新潟県博物調査会について

また新潟県の話に戻る。当時の新潟には旧制中学校の博物学教員らによる「新潟県博物調査会」という団体があり、県内の生物相などを調査していた。『天産誌』の記載によれば、新潟県で視学官[5]を務めていた切れ者・湯原元一(1863-1931)[6]によって創設され、明治39年(1906)から活動を開始し、大正2年(1913)あたりまで活動が続いていた。

中村正雄もこの中心メンバの一人であった。中村が県内で調査を行っていたのは明治37年(1904)から大正12年(1923)の約20年なので、ちょうど前半の時期に重なっている。万能すぎる国立国会図書館デジタルコレクションで当時の会誌を閲覧できる。ただしこの第6号しか見つからない。

県内を新潟区、新発田区、長岡区、高田区などに分けて、それぞれの地域で分担しながら生物相を調査していたらしいことが分かる。この会誌の75ページあたりで中村は「本年度採集余談」として、

  • 山櫻(ヤマザクラ)の学名 Prunus pseudo-cerasus Lindl. は間違いで、Prunus jamasakura Sieb. が正しいらしい
  • 本年、鋸山で1株の山櫻に遭遇した
  • このあたりは山櫻と奥山櫻(オクヤマザクラ)の分布接触点で面白き事なり

というような話を書いている。オクヤマザクラ? オオヤマザクラじゃなくて? そんなのあったの?と思ったら、カスミザクラのことだった。明治期にはカスミザクラはヤマザクラの変異種と思われていた[7]らしい。チョウジザクラとオクチョウジザクラ、モミジハグマとオクモミジハグマみたいな関係だと思われていたわけだ。

当時、先行資料といえば江戸時代に書かれた本草学の書物になる。それも新潟県内については断片的な記載しかない。そんな小さな情報を探し回っていたらしい。上記の会誌の中でも以下のように書いている。

  • 田中芳男翁から畔田伴存古名録』の写本を見せてもらったら、長者の木が北越に点在するとある。しかし今年夏に下越を探しときは見つからなかった。

さらりと「博物館の父」こと田中芳男(1838-1916)の名前が出てくるあたりが面白い。この長者の木とはメグスリノキのことであり、どこでも見かけるような種類ではない。刊行された『天産誌』にはメグスリノキ Acer nikoense が記載されていて、場所は「鳥居峠(東蒲)」とある。これは鳥井峠のことだろう。現在の下越地方、東蒲原郡阿賀町になる。

この会誌には他にも、赤目の木(アカイタヤ?)、邉綿の木(ドロノキ?)、ウリコ(ウリハダカエデ)、テヅルモヅル(これは深海生物)などについて採集時の記録が読める。

新潟県博物調査会としての活動は7年程度で収束したと思われる。だが中村正雄はその先10年以上も独自の調査を続ける。


次回予告

今回(3)はこの本ができた時代やその背景などについて調べてみた。あちこちに石油の匂いがプンプンする。当時の新潟ってこんな感じだったのだ。ちっとも知らなかった。まるで現代の中東のようだ、というか時代順を考えれば、むしろ今の中東はかっての新潟のようだ。次回(4)ではこの本が一体どうやって作られたのかを考えてみる。


  1. 明治時代は数え年が一般的だが、法律上は1873年の太政官布告第36号 年齡計算方ヲ定ムにより満年齢を使う。よって1900年度に16歳(5年生)の1884年生まれから、1922年度に12歳(1年生)で入学する1910年生まれまでになる。計算違うかな? ↩︎

  2. 関東長官。日本の関東地方ではなくて中国の関東州。今の遼寧省大連市あたりが日本の租借地(植民地)だった時代の長官。 ↩︎

  3. https://dl.ndl.go.jp/pid/2973222/1/7 にそう記されてたのだけど本当かな。 ↩︎

  4. コクマロガラスニ就テ(動物學雑誌 第75号)には、松森翁に聞いてみた、という記述がある。 ↩︎

  5. 視学官は戦前にあった公務員の役職で、教員に対する助言や指導を役割としている監督者だった。現在でいえば教育委員会みたいな立場らしい。戦時中には教員から恐れられていたとのこと。 ↩︎

  6. 湯原元一。ゆはら もといち。山口高等中学校教授、第五高等学校(熊本大学)教授、宮崎中学校長、新潟中学校長、新潟県庁視学官、北海道庁事務官、音楽学校(東京音楽大学)長、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)長、東京高等学校長などを歴任。新潟県内では旧制新潟中学校(現在の新潟県立新潟高校)の第4代校長、新潟県視学官を務めた。経歴が漢字だらけである。 ↩︎

  7. あくまでWikipedia情報なので未確認。 ↩︎