新潟県天産誌を読む(1) 博物学者がいた時代

『新潟県天産誌』は新潟県で最初の近代的博物誌(自然誌)である。旧制中学校教諭を勤めていた博物学者・中村正雄(1867-1943)によって編纂された。県内に分布していた植物・動物・鉱物などを20年がかりで調査し、その結果を目録化した資料である。内容は約700ページに及ぶ。発行されたのは大正14年(1925)12月なので、今から100年近く前になる。

以下ではこの『新潟県天産誌』について、何回かに分けて時代背景、成立過程、目録の内容などを「読んで」みたい。素人の駄文に過ぎないが、戦前の博物学の雰囲気のようなものを感じて頂ければ幸甚。なお、以下の文章は基本的にインターネット上で見つかる公開資料のみに基づいている。(ユーザー登録が必要なサイトもあり)

連載インデックス


目次


編纂者のこと

中村正雄について

編者であるこの人物について、単にネットで検索しただけでは大した情報は出てこない。わずかに以下の新聞記事がオンラインで閲覧できる。

中村正雄(なかむら まさお)。慶応3年(1867)11月20日生まれとある。明治維新(慶応4年=明治元年)の1年前である。ぎりぎり江戸時代の生まれになる。庄内藩(山形県鶴岡市)の藩士の家に生まれる。明治33年(1900)、教諭[1]として長岡市の旧制長岡中学校(今の県立長岡高等学校)に赴任。大正2年(1913)には柏崎市の旧制柏崎中学校(今の県立柏崎高等学校)に移る。教育に携わる傍ら、休暇になると県内各地の自然史を調査していた。

もうちょっと詳しい情報はないか、と探してみたら、以下の資料が国立国会図書館(NDL)デジタルコレクションで見つかった。上記の荘内日報社の記事もこのあたりの書籍を参照していると思われる。

昭和18年(1943)1月11日逝去と書かれている。太平洋戦争が終戦を迎える2年半ほど前である。

他にも『新潟県人名鑑』 (1995)も見たが、記載は見当たらなかった。

博物学者という肩書について

当時の博物学者というのは、動物学、植物学、鉱物学などをまとめた「博物学」というジャンルの研究者のこと。今のように学問が細分化する前の時代である。江戸時代には「本草学」という呼び方もあったが、明治期になると英語の"natural history"に当たる言葉として、博物学と呼ばれるようになった。

現在では博物学という名称はあまり使わない。だいたい自然史とか分類学という言葉を使うので、博物学や博物学者という言葉にはちょっと古くて懐かしいニュアンスがある。今でもよく使われるのは博物館、博物誌という言葉くらいか。

いわゆる博物学者で一番有名なのは南方熊楠(1867-1941)だろう。この人はアメリカ留学中に飲酒で退学になったり、博徒の食客になったり、サーカス団に加わったり、大英博物館で乱闘したり、追放されたり、幽体離脱したり、全裸で歩き回ったり、どこのバンカラ小説の主人公ですかという奇天烈な逸話だらけの人だった。

中村正雄はこの南方熊楠と同じ1867年に生まれている。でも中村を含む大多数の博物学者は、もっと普通の常識人だろう。南方熊楠と荒俣宏[2]のキャラが強すぎるため、博物学者=変人というイメージが作られている気がする。風評被害ですよ。

それはともかく、博物学という言葉は明治大正期には一般的な言葉だった。文部科学省のサイトで尋常中学校ノ学科及其程度を見ると、旧制中学校には「博物」という授業があったことがわかる。明治34年(1901)の週間教授時数には、博物学は1年から3年まで週2コマとある。授業としての博物学には、動物学、植物学、鉱物学に加えて、生理学・衛生学も含まれていた。これを担当していたのが中村正雄など博物学の先生である。

博物学の授業をするだけなら博物(学)教諭と呼ぶべきだが、中村正雄という人はさまざまな調査研究も行っていた。なので以下では博物学者という呼び方をしたい。

博物学の授業について

明治大正期の博物学はどんな授業を行っていたのか。国立教育政策研究所のウェブでは、旧制中学校の教科書を読むことができる。博物学の一番古い教科書を眺めてみた。

植物編のページの最初にいきなりキノコの絵が現れる。キノコを植物ではなく菌類とする今の目で見ると「おや?」となるが、当時の分類ではキノコは植物に含まれていた。その絵の下には次のような文章が書かれている。(読みにくいカナや漢字は直している)

植物にはウメ、サクラ等の如く花を生するものと、ワラビ、マツタケ等の如く花を生せざるものとあり

今では、ワラビはシダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科の植物となり、マツタケは担子菌門ハラタケ目キシメジ科の菌類となっている。生物としてはまったく違う。でも当時は地面から生えてくるのだから大体一緒と思われていた。アーキアの存在どころか、原核生物真核生物の違いもあまり知られていない時代である。

続くページをパラパラ眺めてみると、細胞の仕組み、各部の構造、花序の種類など、予想以上に細かい内容を教えていたことが分かる。学生はついていけたのだろうか。

さらに資料を探していたら、国立国会図書館デジタルコレクションでは明治時代に書かれた博物学の参考書が見つかった。

植物の科名がどれも漢字表記だったり、現花植物・隠花植物という見慣れない大分類など、今と違う箇所も多い。しかし葉の形を示す卵形、披針形、長楕円形、鋸歯縁、波状縁、全縁、羽状複葉、掌状複葉など、現在の植物図鑑で普通に見る用語も多い。植物形態学の基本用語はこのあたりで出揃っていたらしい。

この参考書の最初の凡例ページには「本書で予習・復習して、常にポケットに入れて、寸暇を惜しんで学に励みなさい」とある。ずいぶん厳しいな。というかこれは「凡例」に書くことなのか。今それを言うなら「まえがき」だろう。

天産誌という題名について

表紙に書かれた書名は『新潟縣天産誌』。旧字なので「産」の上側は「文」になっている。この天産誌というのは見慣れない言葉だが、「天産」は「天然に産するもの」の意味なので、今でいう博物誌・自然誌・自然史に当たる。

国立国会図書館オンラインで「天産誌」を検索しても、この『新潟県天産誌』1件しか出てこない。書籍としてはかなり珍しい題名と思われる。

今の東京国立博物館の前身に当たる東京帝室博物館には「天産部」という部門があり、動物、植物、鉱物などの自然史標本を収蔵していた。1920年代にこの天産部は廃止されて、標本は今の国立科学博物館に移っている。当時としては天産は一般的な言葉だったのだろう。

こういうときに便利なツールとして、国立国会図書館が運営しているNDL Ngram Viewerを使ってみよう。これを使うと「天産」という単語がテキストに現れる頻度を年代ごとにラインチャートで表示できる。

この結果を見ると、1880年代から少しずつ出現頻度が増えて、1920年代から1940年代にピークがある。まさに『天産誌』が出版された当時だ。それ以降はガクッと減って、現在ではほとんど使われていない。もしかするとこの時期特有の流行語かもしれない。

以下のページでは『天産誌』が世に出たときのレビュー記事が読める。東京昆蟲學會(今の日本昆虫学会)の会誌『昆蟲』の新刊紹介ページである。

一地域のある類の目録と云ふものは今まで発表せられたものも少くはないが、天産全体の目録をまとめられたのは恐らく本書が初めてであらう。

と紹介されている。やはり天産という言葉自体は普通に使われていたようだ。それよりも「天産全体」つまり博物学の全ジャンルをまとめた地方博物誌は本書が初めて、という箇所に注目したい。ちなみに書いているのは矢野宗幹(1884~1970)、後の日本昆虫学会の会長である。


中村正雄の年譜

上記の資料や『天産誌』の記述を元にして、中村正雄の年譜をまとめてみる。

時期 出来事
慶応3年(1867) 庄内藩(山形県鶴岡市)に生まれる
明治13年(1880) 西田川郡中学校を卒業
明治18年(1885) 南村山郡崇広学校 (授業生[3])
明治22年(1889) 庄内市立中学校 (嘱託)
明治30年(1897) 理科教員免許状を得る
明治31年(1898) 山形県立米沢興譲館中学校 (教諭)
明治33年(1900) 新潟県立長岡中学校 (教諭)
明治34年(1901) 文部省中等教員検定試験(文検)の植物学科に合格
明治37年(1904) 新潟県下の標本収集を開始
明治40年(1907) 新潟県博物調査会委員
大正2年(1913) 新潟県立柏崎中学校 (嘱託)
大正12年(1923) 宇都宮高等農林学校 (講師、のちに図書館主事)
大正14年(1925) 『新潟県天産誌』発行
昭和17年(1942) 鶴岡に戻る
昭和18年(1943) 横浜で死去(77歳)

中村正雄の著作物リスト

2023年3月現在、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な中村正雄の編著書は『天産誌』1件のみ。同姓同名の別人の資料も多いので注意。

学術雑誌などに寄稿した記事を探すと、国立国会図書館で見つかるものは以下の通り。

それ以外の著作についても探してみた。すると『鶴岡市立図書館蔵書目録』(1951)の著者名書名索引の見開き41-42ページ目に、下記の書名が記載されていた。ほとんど同じリストが現在も鶴岡市立図書館の図書検索(OPAC)でヒットする。以下それぞれの年代は鶴岡市立図書館の検索結果に基づいている。旧漢字は新漢字に置き換えている。

  • 地理博物誌(編), 1896
  • 中越動物誌, 1944
  • 中越産魚類目録, 1910
  • 中越植物誌, 1903-1905
  • 中越所産鳥族目録, 1944
  • 動物学講義, 1944
  • 越後産甲殻類目録, 1911
  • 越後産軟体動物目録, 1910
  • 樹木方言(編), 1940
  • 樹木方言対照, 1944
  • 解剖図, 1944
  • 海藻学(編), 1944
  • 中村氏原色昆虫図譜, 1944
  • 中村氏原色蜘蛛蟹図譜, 1944
  • 中村氏発見越後産魚類図譜, 1944
  • 中村氏博士博物アルバム(編), 1934
  • 新潟県所産直翅目の目録, 1917
  • 新潟県所産動物調査目録(編), 1944
  • 新潟県所産植物調査目録(編), 1944
  • 落穂集(編), 1926
  • 楽之堂漫筆, 1942
  • 楽之堂随筆, 1944
  • 蘭譜, 1942
  • 生物学実験法, 1944 (注:おそらく『微生物及顕微鏡的生物学実験法』)
  • 下野の植物, 1940
  • 植物学用羅甸語辞典(編), 時期不明
  • 荘内産海産魚類原色図譜, 時期不明
  • 荘内産海産魚類原色図譜, 時期不明
  • 荘内植物目録, 時期不明
  • 荘内淡水魚類原色図譜, 時期不明
  • 藻塩草, 1939
  • スクラツプブツク(編), 1929, 1932
  • 水産動物学(編), 1897
  • 水産雑纂, 時期不明
  • 田中茂穂氏来越記念誌(編), 1912 (注:原題の表記は『紀念誌』)
  • 宇都宮に於ける誘蛾装置内の昆虫目録, 1940
  • 米沢近郊植物採集誌(編), 1899
  • 科学動員の研究, 時期不明

一部に「楽之堂 (樂之堂)」という文字があるが、これは随筆などを書いたときのペンネームである。蔵書目録の名前を見る限り、いわゆる刊行物ではなくて小冊子や手稿が多そうだ。逝去翌年の1944年のものが多く、しかもスクラップブックまで所蔵されているということは、没後、故郷の図書館にまとめて寄贈されたと思われる。

上記の蔵書目録には見当たらないが、現在(2023年3月)鶴岡市立図書館で検索すると見つかる項目もあるので以下に列挙する。

  • 宇都宮にて見たる昆虫習性の一面, 1917
  • 水産動物学, 1897
  • 植物の性転換につきて, 1917
  • 農学研究会会誌, 本校附近の植物分布豫察, 1932
  • 動物学雑誌 第22巻 第256号, 新潟県一部の淡水産魚類, 1910

オンラインで内容も閲覧できる資料となるとほとんど見当たらないが、題名を見ていると植物、魚類、鳥類、昆虫など幅広く、THE博物学者という感じがしてくる。今の専門家がこの幅広さで活動することは少ないので、当時の時代を感じる。もしかすると当時としても珍しい人だったのでは。


次回予告

今回(1)は中村正雄という編者についてざっと調べてみた。次回(2)ではこの本ができた時代やその背景などについて調べてみたい。


  1. 戦前は旧制中学校の正規教員イコール教諭だった。戦後には教育職員免許法に基づく免許状を有する教員全体のことを指す。 ↩︎

  2. 荒俣宏は博物学者というよりも博物学史に超絶詳しい文筆家・小説家です。 ↩︎

  3. 授業生。当時の代用教員のことらしい。 ↩︎